裸一貫
旅行の準備をしている。
荷造りをしていてつくづく思う。何故こんなに荷物が多いんだろう。
日数分の下着、靴下、シャツ、セーターにズボンも何枚か。パジャマ。それにハンカチ、ティッシュ、折りたたみ傘、化粧品、化粧水に乳液に、コンタクトの洗浄液に、髪の補修剤。デジカメ、それに充電器、バッテリー、コンタクトをしていくのに、眼鏡も。
こんなに要るのか。多分、いくつかは触りもせず終わるのではないか。着替えはこんなにも要るのか。旅行先の気温が読めないので、暖かい場合から思ったより寒かった場合まで、無駄に荷物が多い。
こんな時、もっと身軽な人間だったなら。最低限の下着とシャツ、靴下だけで済ませてしまうだろう。ハンカチは三枚もあればいい。化粧は下地に粉だけでいい。コンタクトと洗浄液は要らない。眼鏡さえあればいい。手荷物は、財布と携帯、ハンカチ、ティッシュだけでいい。カメラも要らない。
どうしてそういう風に生きられないのか。こんなに荷物が多いせいで、腰を悪くしては大変だとコルセットまで巻いていくのだ。
つまり、旅先でも今まで通りの生活を送ろうとするからいけないのだ。旅先なのだから、思い切って不便は不便で受け入れればいいのに、いつもと同じ生活を送ろうとしている。携帯の電池が切れることなんか心配している。
日常に縛られる者に旅は開かれないのではないか。そんな予感を抱きつつ、せっせとスーツケースに荷物を詰め込んでいる。
春
春は出会いと別れの季節。そして、人が狂う季節でもあります。
通勤ですれ違う、藪睨みでよたよたと自転車に乗っているおじさん。最近、私とすれ違う度に、「ああ〜!」と奇声を発するようになりました。
通勤ですれ違う、歩道で自転車にまたがったままの状態で仁王立ちしているおばさん、今日は私の姿を認めると自転車を漕ぎ始め、私に向かって何か言っていたようなのですが、耳あてをしていたせいで聞き取れなかった。
春だから少々人がおかしくなるのか、それとも私が見ているこの不思議な人達は本当は存在しないのか、朝から不安になる春です。
小市民
浪費をテーマにした同人誌が届いた。
ネットでアンケートを集めて、結果を冊子をまとめたものだ。
楽しみにしていたので早速開いて読んでみると、一人目から『思い立って急に無職。からのフルスロットルで遊びまくり、二ヶ月で150万使う』というとんでも無くパンチの効いた人が現れた。
二人目も気持ちの良い散財っぷりで、素晴らしく面白いので一気に読むのは勿体無い気がして私は一旦本を閉じた。
浪費。それは甘美な誘惑。思い切って大枚をはたいて、あー楽しかったと思うも良し、こんな事に使ってしまったと思うも良し。何にどれだけ使うかはその人の考え方がモロに出てくるので面白い。
私も一度、大金を自由に使ってみようと思い立って、やってみたことがある。二年か三年ほど前の話だ。
社会人生活も長くなってきたし、ここらでパアッと使ってみてもいいんじゃないだろうか。
そう思って、私は六十万を自由に使って良いお金として手元に置く事にした。もうここで既に、キリのいい百万ではない所に私の気の小ささが出ている。
さて、この六十万ものお金をどうしようか。
私は考えた。六十万を何かの大きな物に一極集中させるか、まあまあのものを沢山買うか。六十万もの金額を自由に使える機会はそうそう無いので、ここは一つ大きなものを買いたい。
そう思いながら私は、まず定期を買いに行った。定期を買い、交通系カードをフルチャージし、それで五万ほど飛んで行った。
ああっ、五万円も。残りはもう五十五万になってしまった。
そう思ってしまったところでもう私の運命は決まっていた。結局私は大物は何一つ買えなかった。三十万ぐらい出してダイヤのネックレスを買おうなどと夢想していたが、そんな大それた出費は出来なかった。服を何着か買い、靴を買い、せめてもとフェラガモで定期入れを買った。定期入れである。いくらだったかもう思い出すことも出来ない。数万はしたと思うが、印象深いほどの金額ではなかったのだろう。
そして残りが二十万ほどになったところで、もうこれだけになってしまったと悲しみに包まれ、その後は散財ではなく、この二十万でこの後いつまでお金を下ろさずに生活できるか、出来るだけ我慢してみようという真逆の方向に走った。一転して節約生活に入った私の心は、思い切って浪費をするのだと気負っていた時よりもむしろ穏やかだった。
あれから時が過ぎ、この同人誌のようにあの六十万で何を買ったか思い出そうとしてみたが、結局定期入れ以外の服や靴は、一体どれの分だったか思い出せなかった。アンケートに答えた浪費者達は、あれに使った、これに使ったと楽しい思い出と共に答えられるのだろう。それに引き換え、私は六十万ものお金を何の思い出にもならない使い方をしてしまった。
小市民だからだ。こんな事に大枚を使って大丈夫だろうかという不安がブレーキをかけさせたのだ。結局最終的には全部使ったんだから、おどおどしていないで、ダイヤのネックレスを買ってしまえば良かったのだ。と、今となっては思う。だが、どうせまた六十万を手にする事があっても、ダイヤのネックレスは買わないのだろう。
しかし小市民は浪費を諦めたわけではない。小市民が狂ったように散財できる可能性があるとすればそれは宝くじ。宝くじの一等が当たること。その時には私の首元に燦然とダイヤのネックレスが光っていることだろう。
グリーンジャンボ、発売中です。
美容院に行く
美容院に行ってきた。
また髪をちょいちょいと短くされてきた。前回かなり髪色を明るくしたところ「えらい明るいな」と突っ込みが入ったので、やはり社会人の髪色ではなかったかと反省し今回は暗めにしてハイライトを入れた。
入れた、とか書くと私が拘りを持ってあれこれしているみたいだが、例によって担当のwtnbさんに「前のは明るすぎたから暗めで」と言って、後はwtnbさんがうまいことやるんである。
だいたい、毎回「今日はどうしますか?」とwtnbさんは聞くが、私は「髪の毛が伸びてきたんで」と言わずもがなの事を言い、「適当にやってください」で丸投げして終わるので、聞かなくても良さそうなものである。
wtnbさんは丸投げすると上手いことやってくれるので、市内の髪型を一秒たりとも考えたくないのに程々に上手いことやって欲しい層は行くといいと思う。wtnbさんは見た感じ軽薄そうなのに職人気質なのだ。
帰りにパンを買ってこいと言われていたので、せっかくなので円頓寺にある芒種まで歩いて行く。
円頓寺・四間道は、金はないけど時間だけは大量にあった大学生の頃からよく徘徊していた。昔は寂れた商店街だったが、四間道が美観地区になり、円頓寺が再開発されてからはお洒落な店と昔ながらのお店が入り交じっている。
昔ながらのお店の方は、『30代以上のおしゃれが好きな人のお店』『完全予約制』『30代以上のおしゃれを愛する人の店です。ご了承下さい』という張り紙が張り出された洋服屋さんとか、未だにクリスマスツリーが飾られ、隣にはゴジラの張りぼてが配置され、二階の出窓からは馬鹿でかいユニコーンのぬいぐるみがこちらを見下ろしている何の店なのかさえ分からない店とか。
私が昔馴染んでいたのはこちらなので、これらの店にはこれからも頑張って頂きたい。
芒種はそんな円頓寺商店街の外れにある、夫婦でやっている小さいパン屋さんである。本当に小さいパン屋で、小ぶりなショーケースに入る程しかパンは置いてないし、三人客がいるともう狭い程しかスペースもない。小さすぎて何となく入りにくい。
前々から存在は気になっていたが、ある時思いきって入って買ってみたところ、小麦の味がとても良い美味しいパン屋だったのだ。
それからしばしば行きたいと思っていたのだが、円頓寺は名古屋駅から距離がある上に、6時閉店という健康的な営業時間であるために、平日は買いたくても買えないのだった。
今日はようやく二回目の購入である。持ち帰る時にもう、小麦の良い匂いがしている。家に着いてさっそく食べてみると、やっぱり小麦の美味しい味がする。
美味しいなあ。近所に来ないかなあ。美容院もわざわざ原まで行くのは遠いなあ。近所に来ないかなあ。幸せは遠きにありて思うものなのかなあ。そういうことじゃないような気もするなあ。
春遠からじ
今日は暖かかかった。
暑さにも寒さにも弱い意思軟弱な私には、こうして暖かい空気を感じると嬉しくなる。今日は春の土の匂いがした。
冬来りなば春遠からじというが、実際の春はまだまだ先な上に、寒い、あったかい、寒い、あったかいを繰り返して散々焦らした上に、春の風はびよーびよーと強いのだ。それが春だ。そして私は花粉症だ。それが春だ。
春といえば、昔、祖父母と一緒によくサカマチという所に行った。山の方なので、坂町と書くのかもしれない。
祖父は魚を釣りに。祖母は土筆を摘みに。私は祖母に付いて土筆をぞんざいに摘んでいたが、祖母はじっくり丹念に土手に生えている土筆という土筆を摘みまくっていた。執念の土筆摘みだった。
家に帰ると新聞紙を広げて、その上でこれまた丹念に土筆のはかまを取った。そうしてビニール袋一杯に土筆を貰って家に持って帰り、卵とじにして食べた。穂先がきちんと閉じたままのものは苦味があって美味しいのだ。春の味の思い出はこの土筆の卵とじの味だ。
あの土手は犬のうんことかおしっことか大丈夫だったんだろうかという一抹の不安と共に、祖父母の懐かしい思い出として思い出される。