越冬

訴えたいことが、ないんです

自転車泥棒あれこれ

先日の話では主題から逸れてしまうので書けなかった、自転車泥棒を観て思ったあれこれを書きたい。特に考察とかではない。

まず、父親が仕事を始めるために質屋にベッドのシーツを持ち込み、代わりに自転車を取り出してくるところ。昔の質屋って実に様々な物を質入れしてたんだなあ。現代で質屋に持ち込むものと言ったら、ブランドものの時計、ブランドものの鞄、貴金属類ではないだろうか。早速話が逸れるが、実際現代で質屋に持ち込んで質草になるものは何だろうと思い検索したところ、上記の定番は別として、プロの使う工具を受け入れている所もあり、確かに業種としてあり得そうだと納得した。また、カメラも質草になる。確かにカメラは愛好家も多く、高いものはめちゃくちゃ高い。そして質で流してしまったもの、という2ちゃんねるのスレッドでは双眼鏡が挙げられていて、珍しいと思った。カメラに類する、レンズが良いものだったのだろうか。昭和の小説などではよく着物を質草に金を借りる記述があるけれど、今では無いだろうなあ。と、いうような感じで、現代では質草はもう高級品に限られていて、映画の一家のような自転車、ベッドのシーツなどは今では質草になるとはとても考えにくい。せいぜいリサイクルショップに持ち込むのが精一杯、しかも買い叩かれそうなのが目に見えている。けれどこの時代、生活に必要そうな自転車シーツが質草になるのは、それだけ困窮している人が多く、何かを都合する為に何かを質に入れるというのが庶民の生き方だったんだろうなあ。

それから父親が息子と一緒になけなしのお金でレストランに入り、しかし料理が高すぎる為にパンとチーズだけ頼んで出てくる場面。お金が無い惨めさがよく伝わってくるが、これ父親でなく母親ならば絶対にレストランなんか入らないだろうなあと思った。レストランに入ってパンとチーズしか買えなかったお金でも、市場で食材を買って家で料理をすればもっと沢山買えて腹を膨らませることが出来ただろうに。しかもこのレストランというのも安そうな大衆食堂ではなくれっきとしたレストランなのである。こういう選択をしてしまうの、男の人っぽいなあ、分かるなあと思った。

この父親は家に帰ったら母親に自転車を見つけられなかったことを詰られ、何故か怪我をしていることを誤魔化してまた詰られ、なけなしのお金でレストランに入ったことを子供がぺろっと母親に話してしまって更に詰られ、あんた明日からどうすんのよ!馬鹿じゃないの!?と詰られるんだろうなあ。お父さん、元気出してね。

自転車泥棒

またしても体調が悪い。

元々持病として婦人科の病気があったのだが、ここ二、三年でにわかにヘルニアになり、寒くなると腰が痛むようになった。ヘルニアは本当にヘルがニアい。こりゃえらいことだ、と思っていたら、この一週間突然頭痛に悩まされることになった。一週間ぶっ続けの頭痛である。時々ビッグウェーブがやって来る。余りに痛い上、体調不良が続きすぎて精神が限界を迎え、痛みに悶絶しながらもおいおいと号泣していた。

と、そういった調子でここ数ヶ月、体調が一進一退しているせいで、病欠でバンバン有給を取りまくっている。職場の人が優しいので、体調不良で休むことを咎められはしないが、こうも休んでばかりいると仕事をクビになる日も近いのではないかと恐れ慄いている。仕事をクビになればお金が貰えず、お金が貰えなければなけなしの貯金に手を付けて、それが底をつけばあっと言う間に生活困窮者の出来上がりである。そうは言っても実家暮らしではあるのであっと言う間に、という訳ではないかもしれないし、身一つで路上に放り出されることはないかもしれないが、病気→失業→困窮という流れるような三段落ちがあまり絵空事とは思えなくなっている。

仕事が大好き、ということは決してないのだが、仕事を失うと困る。お金が貰えなければ困る。などと考えていると、昔見た映画の自転車泥棒が思い起こされる。

 

自転車泥棒を見ていない人に説明すると、第二次世界大戦後のイタリアで、仕事がなく生活苦にあえぐ父親が、運良くポスター貼りの仕事にありつく。ポスター貼りの仕事をするには自転車が必要なのだが、自転車は質屋に入れてしまっており、父親は母親にベッドのシーツを代わりに質入れさせて自転車を受け出して来る。調子良くポスター貼りの仕事に精を出していた父親だが、その自転車を何者かに盗まれてしまう。自転車が無ければせっかくありついた仕事が出来なくなってしまう。父親は息子と共に自転車泥棒を探しに行くが、怪しい男を見つけたものの取り逃がしてしまい、息子に八つ当たりまでしてしまう。腹が減った親子はレストランに入るが、豪華な食事を楽しむ身なりの良い客達と違い場違いな格好の上、高価な代金にパンとチーズを頼むのが精一杯。満たされぬ腹のまま、惨めさを抱えてレストランを出た親子。これからどうしようかと途方に暮れた父親は、広場に並べられた沢山の自転車に魔が差して手を出してしまう。首尾良く手に入れるどころかあっという間に気が付かれ、怒る群衆に殴る蹴るの暴行を受ける父親。息子の鳴き声で群衆は冷静になり、子供に免じて許してやると警察に突き出されるのだけは免れる。ボロボロになった父親と、悲しげな息子。自転車はない。これからどうなってしまうのだろうか、という暗澹たる気持ちのままに話は終わる。

この映画を初めて見た時は、人間仕事があってご飯が食べられればそれだけで充分幸せなのだと心底思った。仕事があればお金が手に入る。お金があればご飯が食べられる。これ以上なにを望むことがあるだろうか。人間仕事とご飯だ。当時の私は深く納得した。そして、何かと言うと自転車泥棒のことを思い出しては、人間仕事とご飯だと思うようになった。

その仕事が今、脅かされているのである。仕事が出来なければご飯が食べられない。なけなしの金でレストランで息子と共に水とパンとチーズを食べることになる(私に息子はいないが)。自転車を盗めば群衆にボコボコに殴られるだろう。私に息子はいないから止めてくれる人もいない。もう駄目だ。

というように一気にもう駄目だ感が出て来る。何とかして仕事は続けないと清太のように駅のホームで栄養失調で転がって死ぬことになる。清太とは火垂るの墓の清太のことである。

このように、仕事を失うと人は急転直下なので、何とかして健康を維持し、仕事を続け、三度三度のご飯を食べていきたい。

断捨離

という程のことをしている訳ではないが、じわじわと物を捨てている。

手始めに服を数枚捨て、本を捨て、部屋にあるこれはもう要らないだろうという物を細々と捨てている。

物に囲まれていると段々気分がくさくさしてくるが、思い切って捨ててしまうとさっぱりする。その爽快な気分を味わうべく思い切ってやってしまいたいのだが、近頃ヘルニアに苦しむ日々で、思い切った片付けをするには体調がついて来ないので、ちょこちょこと物を捨てては減らしていっている。

 

最近、手拭いを捨てた。手拭いは私がハンカチ代わりに集めているもので、二十枚ぐらいは手拭い専用の引き出しに仕舞われている。柄が色あせていたもの、実は気に入らなかった柄、布としてはまだまだ使用に耐えうるので、いくらか後ろめたさを抱えながら、まとめて紙袋に入れてガムテープで封をする。

どうして厳重に封をするかというと、使える物を捨てる後ろめたさがそうさせるのだ。だがこういう、気に入らない微妙な物を残したままでは片付け後の爽快感はやって来ないので、心を鬼にして捨てる。

手拭いでいっぱいになっていた引き出しにはいくらかの空間ができ、また気に入った手拭いを見かけたら買おうと思う。

 

 

本を捨てる

積ん読が大好きな私であるが、一応少しづつ読んではいる。そして読み終わると今度は読み終わった本も積み上がっていく。

またぞろ本が増え過ぎて来たので、ここらで心を鬼にして本を捨てねばならないと、第何回目かの大処分をすることにした。

目標冊数は50冊。これだけ捨てれば多少は本をしまう隙間もできるはずである。

 

さて、と引き出し(私はタンスの中に本を仕舞っている)を開ける。ここ最近読んだSF作品をさっさと抜き出す。面白く読んだが未来永劫置いておくわけにはいくまい。それから過去数回の処分で悩んでチビチビと捨て出していた町田康を思い切って全て処分する。

そしてチビチビ捨て始めていた川上弘美作品も、また更に厳選して数冊捨てる。自分的課題図書として読んだ何冊かの本を捨てる。もしかしてやる気を出すかもしれないと買った料理の本も捨てる。吉村昭の小説も何冊か捨てる。よく分からんと思いつつ後生大事に取って置いた安部公房も捨てる。諦めろ、お前には理解できる日は来ない。

それから教養と思って買った宇治拾遺物語、読破出来ず捨てる。死者の書も捨てる。死者の書といえば、死霊も始めの数ページで挫折して止まっているのだが、いつかやる気を出すかもしれないと未来の自分に望みを繋ぎ、処分は保留にした。

 

友人は10冊残して後は全て処分した、と潔いことを言っていたが、やはりなかなか真似出来そうにない。いつでも本屋で買えそうな物は本屋で買い直せばいいので捨てたというが、今のところまだシャーロックホームズシリーズは捨てられない。

今、作家買いして捨てられないのは武田百合子内田百間須賀敦子ぐらいだろうか。既にこの三人の作品だけで10冊を超えてしまっている。どうせ読み直すことがないんだから捨てたら、と言われ、それは確かにそうだと思いつつ、捨てられずにいる。

 

今、これで45冊になった。あと5冊、ひねり出したい。

過去の垢を無理やり削ぎ落とす儀式のようだな、と思いつつ、引き出しを睨んでいる。

裸一貫

旅行の準備をしている。

荷造りをしていてつくづく思う。何故こんなに荷物が多いんだろう。

日数分の下着、靴下、シャツ、セーターにズボンも何枚か。パジャマ。それにハンカチ、ティッシュ、折りたたみ傘、化粧品、化粧水に乳液に、コンタクトの洗浄液に、髪の補修剤。デジカメ、それに充電器、バッテリー、コンタクトをしていくのに、眼鏡も。

こんなに要るのか。多分、いくつかは触りもせず終わるのではないか。着替えはこんなにも要るのか。旅行先の気温が読めないので、暖かい場合から思ったより寒かった場合まで、無駄に荷物が多い。

こんな時、もっと身軽な人間だったなら。最低限の下着とシャツ、靴下だけで済ませてしまうだろう。ハンカチは三枚もあればいい。化粧は下地に粉だけでいい。コンタクトと洗浄液は要らない。眼鏡さえあればいい。手荷物は、財布と携帯、ハンカチ、ティッシュだけでいい。カメラも要らない。

どうしてそういう風に生きられないのか。こんなに荷物が多いせいで、腰を悪くしては大変だとコルセットまで巻いていくのだ。

つまり、旅先でも今まで通りの生活を送ろうとするからいけないのだ。旅先なのだから、思い切って不便は不便で受け入れればいいのに、いつもと同じ生活を送ろうとしている。携帯の電池が切れることなんか心配している。

日常に縛られる者に旅は開かれないのではないか。そんな予感を抱きつつ、せっせとスーツケースに荷物を詰め込んでいる。

春は出会いと別れの季節。そして、人が狂う季節でもあります。

通勤ですれ違う、藪睨みでよたよたと自転車に乗っているおじさん。最近、私とすれ違う度に、「ああ〜!」と奇声を発するようになりました。

通勤ですれ違う、歩道で自転車にまたがったままの状態で仁王立ちしているおばさん、今日は私の姿を認めると自転車を漕ぎ始め、私に向かって何か言っていたようなのですが、耳あてをしていたせいで聞き取れなかった。

春だから少々人がおかしくなるのか、それとも私が見ているこの不思議な人達は本当は存在しないのか、朝から不安になる春です。

小市民

浪費をテーマにした同人誌が届いた。

ネットでアンケートを集めて、結果を冊子をまとめたものだ。

楽しみにしていたので早速開いて読んでみると、一人目から『思い立って急に無職。からのフルスロットルで遊びまくり、二ヶ月で150万使う』というとんでも無くパンチの効いた人が現れた。

二人目も気持ちの良い散財っぷりで、素晴らしく面白いので一気に読むのは勿体無い気がして私は一旦本を閉じた。

浪費。それは甘美な誘惑。思い切って大枚をはたいて、あー楽しかったと思うも良し、こんな事に使ってしまったと思うも良し。何にどれだけ使うかはその人の考え方がモロに出てくるので面白い。

 

私も一度、大金を自由に使ってみようと思い立って、やってみたことがある。二年か三年ほど前の話だ。

社会人生活も長くなってきたし、ここらでパアッと使ってみてもいいんじゃないだろうか。

そう思って、私は六十万を自由に使って良いお金として手元に置く事にした。もうここで既に、キリのいい百万ではない所に私の気の小ささが出ている。

 

さて、この六十万ものお金をどうしようか。

私は考えた。六十万を何かの大きな物に一極集中させるか、まあまあのものを沢山買うか。六十万もの金額を自由に使える機会はそうそう無いので、ここは一つ大きなものを買いたい。

そう思いながら私は、まず定期を買いに行った。定期を買い、交通系カードをフルチャージし、それで五万ほど飛んで行った。

ああっ、五万円も。残りはもう五十五万になってしまった。

そう思ってしまったところでもう私の運命は決まっていた。結局私は大物は何一つ買えなかった。三十万ぐらい出してダイヤのネックレスを買おうなどと夢想していたが、そんな大それた出費は出来なかった。服を何着か買い、靴を買い、せめてもとフェラガモで定期入れを買った。定期入れである。いくらだったかもう思い出すことも出来ない。数万はしたと思うが、印象深いほどの金額ではなかったのだろう。

そして残りが二十万ほどになったところで、もうこれだけになってしまったと悲しみに包まれ、その後は散財ではなく、この二十万でこの後いつまでお金を下ろさずに生活できるか、出来るだけ我慢してみようという真逆の方向に走った。一転して節約生活に入った私の心は、思い切って浪費をするのだと気負っていた時よりもむしろ穏やかだった。

 

あれから時が過ぎ、この同人誌のようにあの六十万で何を買ったか思い出そうとしてみたが、結局定期入れ以外の服や靴は、一体どれの分だったか思い出せなかった。アンケートに答えた浪費者達は、あれに使った、これに使ったと楽しい思い出と共に答えられるのだろう。それに引き換え、私は六十万ものお金を何の思い出にもならない使い方をしてしまった。

小市民だからだ。こんな事に大枚を使って大丈夫だろうかという不安がブレーキをかけさせたのだ。結局最終的には全部使ったんだから、おどおどしていないで、ダイヤのネックレスを買ってしまえば良かったのだ。と、今となっては思う。だが、どうせまた六十万を手にする事があっても、ダイヤのネックレスは買わないのだろう。

しかし小市民は浪費を諦めたわけではない。小市民が狂ったように散財できる可能性があるとすればそれは宝くじ。宝くじの一等が当たること。その時には私の首元に燦然とダイヤのネックレスが光っていることだろう。

グリーンジャンボ、発売中です。