越冬

訴えたいことが、ないんです

読んだ本

『恋日記』内田百閒

内田百閒の若かりし頃、16歳の栄造少年が、親友の妹、堀野清子に恋をして、数年間にわたる、その想いを書き綴った日記。

お前は清さんと鳴く鳥かというほど、清さん清さんと連呼している。清さんは容姿端麗、才女であって血筋も良い、しかし自分は容姿は十人並み、頭も良くなく(と言ってもその後、栄造少年は東京帝大へ進学するので当然非常に優秀なのだが、謙遜である)、血筋は悪くはないが、とても清さんとは釣り合わない、と初めの内は嘆いている。悲嘆に暮れるあまり、無理矢理別の女性に恋をしようとするのだが、やっぱり清さんが一番だ。ああ、清さん、清さん、と栄造少年は悶々としている。しかし、いつの間にやら、清さんこそ私の妻なるべし、清さんの他に女はおらず。などと決めてかかっていて、人の恋というのは実に愉快なものである。

というかこの恋日記は、首尾よく清さんとの恋が成就したら、こんな風に思っていたんだよと清さんに渡して、二人で仲良く読み返そうという、何故かめちゃめちゃ明るい未来を想定して書かれており、悲嘆に暮れていたくせにいい根性をしている、さすが百閒先生である。

そして百閒先生ファンならば何となく知っている、清子夫人の元を離れ、こひさんと同棲を始めた顛末が、百閒先生の次女がどうやらこんな経緯だったようです、と語っているインタビューが載っている。百閒先生ファンとして、清子夫人を棄ててこひさんと生活を始めた先生のことは、微妙な思いがあったが、この文を読んで、救われたような感じがした。

読んだ本

備忘録的に。

 

魔の山トーマス・マン

去年の十月末からかかって、今年に入ってようやく読み終えたもの。何度挫けそうになったことか。

ナフタとセテムブリーニの論争はほぼ理解せぬまま文字だけを追っていた。ハンス・カストルプは結局、セテムブリーニ始め、沢山の人に色々影響を及ぼされたかと思いきや、全然影響を受けぬまま、のんべんだらりと山の上で療養生活を続けた後、突如起こった第一次世界大戦に突然愛国心を突き動かされて、国に戻って兵役する。教育とは。

 

『郊外へ』堀江敏幸

エッセイというから実体験なのかと思ったら、小説であった。創作であった。下地となるフランス文学なりフランス映画の素養が無いのに読んでしまったせいで、あんまり理解できなかった。一般的にイメージされがちな、おしゃれで美しいフランスから離れた、寂しげで、寒々しい空気を感じさせるフランス郊外というものの存在を知れたことは良かった。

 

『うつくしく、やさしく、おろかなり』杉浦日向子

江戸を愛する杉浦さん最後のエッセイ集。江戸を愛する杉浦さんの、江戸愛に溢れた一冊。江戸の人の精神性。粋(いき)と粋(すい)の違いなんかが分かりやすく書かれていて面白い。江戸っ子は、ダメな恋人(愛人だったかな)のようだという杉浦さんの説明がまさにという感じ。今の日本人とは違う価値観。でも、折々に思い出したい。

 

『誠実な詐欺師』トーベ・ヤンソン

ムーミンの作者による、ムーミンを読んでいると時々あるひやっとさせられる文章をめいっぱい味わせられる作品。アンナとカトリのやり取りが恐ろしすぎて、読み続けるのに精神力を必要とした。カトリは、アンナから何もちょろまかさずに、お金を巻き上げるというつもりだったのかもしれないが、アンナの精神を一旦破壊している。カトリはアンナと関わったことで、弟と犬を結果的に失うことになる。アンナは再生し、カトリを赦し、今までの自分を乗り越えた新しい一歩を踏み出す。アンナの言葉はカトリに届いただろうか。

 

エドウィン・マルハウス』スティーヴン・ミルハウザー

主人公の少年による、ある少年作家の伝記、という体裁を取った小説。と書くと何ともややこしい。天才型のエドウィンと、秀才型のジェフリー、エドウィンの才能に惚れ込み、彼の友人として、しかし観察者として隣に佇むジェフリーが恐ろしい。エドウィンと遊びに出かけるジェフリーの描写は美しい。エドウィンの最後は、二人の関係らしいという感じもした。何事にも自覚的なジェフリーと、気まぐれで放埓なエドウィンだから。

 

『紅茶と薔薇の日々』森茉莉

森茉莉のエッセイは、何度読んでも、この人とは合わないな、と思いながら読み、そしてまた手に取ってしまう。思い込みが激しいというか、基準が何をおいても自分!!だから、変な発言も多いんだよね。この人は。しかし、幼少期から晩年に至るまで、確固たる美意識を持ち続け、美の世界を愛した森茉莉は大した人だと思う。こんな生き方、普通の人間には出来ないものね。

財布を買った

薄々気がついていたのだが、財布がもう限界なのだった。

濃紺で型押しのしてある財布で、使いやすくカードもいっぱい入って便利なのだが、端が擦れて広範囲に退色してきていた。

やっぱりもう駄目なのか、もうちょっと頑張ってくれんのか。悩みつつ騙し騙し使ってきたのだが、私より遥かに状態の良い美しい財布を使っている友人が「もうこの角が汚れてきちゃって、買い換えようかな」と話すのを聞いて、そうか、世間ではその程度でもう駄目なのか、そしたら私の財布はとっくの昔に駄目だったわ。と諦めがつき、買い換えることにした。

 

世間では若くからブランドの財布を持つ人もいるが、私の財布の歴史は長く安物を使っている歴史だ。

二十代中盤まで、ユニクロで買った黄色のナイロン製財布を使っていた。五百円だったと思う。安かったし、見た感じも安っぽかったが、長いこと使っていた。買ったのは高校生か大学生の頃だったが、ナイロン製なので洗えてしまったので、汚れては洗い、汚れては洗いして使い続けた。何度か友人にまだその財布を使うのかと言われたが、何の不満も無かったので、そのまま使い続けた。

しかしある日、彼氏が財布を見て、とても可哀想な感じで、誕生日にはお財布買ってあげるからねと私に言った。この財布はそんなにいけないのか。友達の忠告はあんまり真剣に聞いていなかったが、買ってまで私の財布を換えさせようという彼氏のその言葉は堪えた。そして、結局財布は買ってくれなかった。

そういうわけで、私はついにナイロン製財布に別れを告げて、新しい財布を買うことにした。やはり大人は革の財布だ、とデパートまで買いに行ったのだが、どれもこれも一万円を越す金額だった。駄目だ、高すぎる。

しかし折良く新年のセール中で、値下げされた財布達がワゴンの中に並べられていた。お値段、三千円。私はそこで、気に入った財布を一つ選び、ついに本革財布デビューを果たしたのだった。五百円の財布が三千円、六倍の価格にジャンプアップである。思い切った買い物だった。そして、財布を変えたら、換えろ換えろと言っていた友人達は誰か気がついて褒めてくれるかと思ったが、誰も何も言わなかった。世知辛い。嫌な世の中である。

革財布は薄い緑色で気に入っていたのだが、あっという間に汚れた。今度はナイロン製でもないので洗うことも出来ない。かなり汚れが目立つまで引っ張ったが、二年後、私は買い替えを余儀なくされた。

そして次も、新春ワゴンセールの中から三千円の財布が選び出された。前回の反省を活かし、薄い色で汚れの目立ちそうな物は避けた。次に選んだのは、黒とグレーの、馬が目をカッと見開いた刺繍が施された財布だった。

その財布は随分長いこと使っていた。色を上手く選んだのが幸いして、汚れは全く目立たなかった。表面の加工も、傷が付きにくくて良かった。しかし、私のセンスに疑問があるのか、私が財布を取り出すと皆、なにその財布。と言って、馬の刺繍をもっと良く見ようとするのだった。なにその財布、なにその財布と言われながら、数年間その財布を使い続けた。

 

そして、馬の刺繍の財布もついにボロくなり、今使っている濃紺型押しの、普通の財布に買い替えたのだ。これは雑貨屋さんに売っていたもので、一万円だった。三千円財布からまたジャンプアップなのだが、そろそろ本当にちゃんとした財布と思って、ついに一万超えの財布を買ってしまったのだった。

前述のように、大変使い易い結構な財布だったのだが、前回の馬の財布のインパクトが強すぎるのか、使い出して随分経ってからも、あれ、貴方の財布そんな財布だったっけ、と驚かれた。実は皆、馬の財布が好きだったのかもしれない。

 

と、いうわけで、また新しい財布を買った。五百円、三千円、一万円と順調にハイパーインフレを経験してきた財布だが、そうそう高い財布を買うことは出来ない。けれど、もうナイロン財布をガサガサ言わせていた歳ではないので、年相応に素敵な財布にも憧れがある。

実は出来心でセリーヌに財布を見に行ったのだけれど、完全に店員に存在を無視された。多分、溢れ出る貧乏人オーラのせいだと思う。もしくは、その日着ていた服がとても安かったからだと思う。店員が丁重に応対したら買ったのかと言えばきっと買っていないが、店員にフルシカトされて、私はしょんぼりと店を後にした。そして結局、13500円の、革の財布を買った。そして、一粒万倍日である11日に、新しい財布を下ろした。

実は、前回の紺色の財布ほど使いやすくない事が早々に判明してしまったが、これから数年間この財布とともに頑張っていこうと思う。

ムー的世界

オカルト大好きっ子なのだが、当人には全く霊感が無い。

実はわが町には超有名な幽霊屋敷がある、正確にはあった、のだが、幽霊の目撃情報続々であるにも関わらず、一度も見たことはなかった。一度、若い男性の姿がその屋敷で見られたのだが、その男性は普通に実在の人物で、管理会社から派遣されて窓を開けて風を通しに来ているだけの人物であった。

そのようにオカルト的、スピリチュアル的な経験がほぼ無いものの、無いからこそ、そういう話を聞くのは大好きである。

先日、東京に遊びに行った折、そこで一緒に遊んだお二人とお寺でおみくじを引いた。皆、吉だったのだが、一人はいつも運の調子に合ったおみくじを引くのだという。調子のいい時は大吉、悪い時は凶と、ちゃんと連動しておみくじの結果が出てくるらしい。凄い。そしてもう一人の人は、当人ではないのだが、その人の弟が、おみくじで凶を引く確率が八割なのだという。凄い。凶、なかなか出ないのではないだろうか。大吉と凶であれば、凶の方がおみくじの中に入っている確率は低いのではないだろうか。それを八割の確率で引くというのは、凄い話である。スピリチュアルな観点から言えば、なんでそんなに神様の反感を買っているのかという純粋な疑問も湧いてくる。

神様に愛される人、というのも滅多にいないだろうが、神様に愛されていない、といっても不幸続きの人生なわけでもなく、ただおみくじはほぼほぼ凶、というのも絶妙な嫌さ加減で味わい深いものである。

ゲスのクラウドファンディング

わりと募金する方である。日本赤十字、JPF、クラウドファンディングや、最近は児童養護施設なんかにも募金した。そうするとはたから見ると篤志家という感じにも見えそうだが、勿論違う。募金する動機は、この先も住み良い日本が続いて欲しいから、それが一番正直な理由だ。私が年老いても、この先も今のようにまあまあ住み良いいい感じの日本が続いて欲しい。そんな気持ちで募金している。

動機がそれなので、例えば災害があれば住み良い日本をキープする為に募金する。日本赤十字やJPFなんかはその例だ。それから児童養護施設は、子供は日本の未来を担うので、先行投資的な気分で募金する。貧しい不幸な子供が沢山いるよりは、たとえ生い立ちに不幸があっても教育を受ければなんか立派な子供が育って、住み良い日本を維持してくれるんじゃないか。そういう下心である。そしてクラウドファンディング。これは主にready forとacademistに募金している。アカデミストはその名の通り学術系クラウドファンディングである。日本の研究者に投資ができる。科学に金を注いで日本が学術先進国であり続けて欲しい。何か有用な発見をして特許を取り豊かな日本を維持して欲しい。下心満載で募金している。

そして、ready forなんだが、これはご存知の方もいると思うが、日本最大のクラウドファンディングのプラットホームである。募集の内容に特に制限は無いので、多種多様な募集がされている。私は先に述べたような理由から、未来を守る為の先行投資としてなんかごちゃごちゃと募金している。ごちゃごちゃやっていたら、結構長いことやっていたようで、先日ready forの懇親会的なものにご招待を受けたというか、懇親会に申し込みできる案内を受けたが、申し込みはしなかった。何故なら私は篤志家では無いからである。特にready forは、応援半分、ウォッチ半分であるので、とても皆さんと懇親出来るような立場ではない。ready forは純粋に応援して募金するものも沢山あるが、しかし何と言っても面白いのは、そんなもん自分の金でやれ、人の財布を当てにすんなボケが、と思うような案件が成立するのか否か、ニヤニヤと見守ることである。

例えば、大阪でバーを改装したいので改装費を募集します!と書いてあるのだが、何故かプロフィールには某高級外車に乗ってます、という謎の自慢混じりのプロフィール。アホか。売れ。その車を。車を売って改装費に充てろ。そんでお前は軽にでも乗っとれ。ーーーという、こんなツッコミどころ満載の募集案件を見つけたら、すぐさまお気に入りに登録する。そして一ヶ月後、無事に不成立になっているか見に行く。やっぱり不成立である。せやろ。見たか!世の中甘くないんや!ばかちんが!とエセ関西弁できめつける。

そういうゲス活動をしていたところ、Facebookでとあるクラウドファンディングの案内があった。誰かがいいね!を押したせいで記事が上がってきたようなのだが、誰かの繋がりの知らないお方が、新しく事業を展開するために、資金の一部を募集する、という話であった。私は俄かに色めき立った。

今まで確かに楽しい案件は沢山あったが、直接の知り合いがやっていたことはない。これも直接の知り合いではないが、ワンクッション置いた他人である。近い。これは面白い。

私は早速、そのFacebookの記事のコメント欄を見に行った。皆の反応が気になったからだ。もし繋がりのある人が募金を集めています、と記事を上げたらどうだろう。無視するのも微妙だし、かといって勿論金は払いたくない。つまりこれは、人の繋がりを金に変えようとしている訳で、事業の展開など、どう考えても銀行で金を借りろと言いたくなるような話の場合、どうコメントするのが最善なのか。私はワクワクしてコメント欄を見た。

『すごい!僕に出来ることがあったら何でも言って下さいね!応援しています!』(金は出さない)

『頑張ってね!私もクラウドファンディングをやっているので応援よろしく!』(まさか逆に要望されるとは。強い。見習いたい)

『応援してるよ!拡散しておくね!』(これが一番多い反応だった)

皆、お金は出せないよと暗に含めつつ、応援してます!拡散しておくね!いいね!ということであった。

そして募集している総額100万に対し、実際集まっている額は4万であった。Facebookで友達が沢山いても、お金は集まらない。集まるのはいいね!だけなのである。いいねで腹は膨れないんである。

実はこの記事を見かけたのはしばらく前のことで、つい昨日、思い出してその案件を見に行ったところ、やっぱり4万円から増えていなかった。このまま行くと不成立まっしぐらである。あと何日かあるが、どうなるのか、ニヤニヤと見届けたい。

ready forや、他のクラウドファンディングでもそうだが、見返りが特に魅力的なものでなくても成立する場合は、公共性が高いもの。社会福祉に貢献しているものが圧倒的に多い。反対に、そんなモンは働いて金を貯めてやれと思うものや、事業資金なら銀行から借りろと思うものは大体不成立になっている。金は安易には手に入らない。それでいいのである。待ちぼうけの歌のように、うっかり労せずして大金を手にすると、次も期待してしまう。そして本来するべき正当な努力やアプローチを忘れてしまう。それではいけない。金は貯めるか、銀行から借りるべきである。そして、借りた金は汗水垂らして働いて、返さねばならんのである。クラウドファンディングで資金調達、雲を掴むような話であって、掴めぬのは道理なんである。