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越冬

訴えたいことが、ないんです

春の思い出

桜の季節は終わった。この辺りでは、花はあらかた落ちて、新緑の季節になった。

桜も好きだが、桜よりも私は藤が好きだ。桜が終わると、藤の季節がやってくる。

藤には思い出がある。

近所の川沿いに、藤の棚のある家があった。随分樹齢の古い、立派な藤の棚のある家なのだが、藤の花が咲く季節が来ると、安い木戸賃を取って一般に公開していた。一体幾ら払っていたのか覚えが無いが、近所の人々は藤の季節が来れば皆いそいそとその家を訪ねたし、中学の頃には友人と二人で行った記憶もあるので、随分安かったに違いない。

川沿いにあったその家は、土手から下って降りると河川敷に藤の棚が広がっていた。小さな桟敷と、ベンチとテーブルがいくつかあって、藤の棚の下で飲食が出来るようになっていた。家の人が、田楽や里芋、心太やラムネを売っていて、私は田楽と言えばここで食べた田楽の味が思い浮かぶ。山椒の葉が田楽の味噌に載せてあって、美味しい田楽だった。

花が垂れ下がり、陰を作る下から外を眺めると、まぶしい程の光と、光を反射して煌めく川面が見えた。良い匂いを漂わせる花の周りを熊ん蜂が飛んでいた。

毎年の楽しみであったこの藤の棚は、ある年、川の護岸工事の為に河川を拡張することになり、取り壊されてしまった。

藤の棚が見事な公園は他にも沢山ある。だが、私にはこの小さな藤の棚と、一つの家族だけでやっているささやかな商売が好きだった。何もかもがちょうどいい小ささで、ちょうどいい大きさだった。

もうすぐ藤の季節がやって来る。